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東文研セミナー「董少新氏、朱溢氏(復旦大学文史研究院)をお迎えして」のご案内

東洋文化研究所では、復旦大学文史研究院との学術交流協定に基づき、文史研究院の副教授二名(董少新氏、朱溢氏)を一ヶ月招聘し、下記の要領にてセミナーを開催いたします。

・日時:
2012年1月12日(木)3時~6時半
・場所:
東洋文化研究所3階大会議室
・司会:
羽田 正(東洋文化研究所長)
・報告①タイトル:
「清代宮廷における西洋医学」
・報告①報告者:
董 少新(復旦大学文史研究院 副教授)
・報告②タイトル:
「公私の間:唐宋時期の太廟祭祀の変遷」
・報告②報告者:
朱 溢(復旦大学文史研究院 副教授)
・言語:
中国語(通訳あり)

報告①「清代宮廷における西洋医学」  董 少新(復旦大学文史研究院 副教授)
【報告概要】
 明朝末期から清朝初頭にかけて、各種の西方科学技術が中国に伝来、伝播したが、その内在的原因の一つに中国の統治者がそれを必要とし、また提唱したことが挙げられる。
 西洋医学の中国への伝来に関しては、宣教師が布教を目的に民間および宮廷で医療活動を行った。医師でもある宣教師が皇帝の招請に応ずる形で、宮廷内で医療活動を行った結果、マカオを除いては、宮廷が中国への西洋医学の伝来の中心となった。彼ら医師宣教師は、皇帝の望みと嗜好に応じて薬品を製造し、医学書を翻訳した。皇帝をカトリック教徒にするという、望みは所詮、果たしえぬものであったが、それでも尚、皇帝にカトリックと同宣教師に対する好感をいだかせ、布教活動を容認してもらうために、イエズス会はじめ多くの修道会が宮廷での医療活動に従事した。
 宣教師の宮廷での医療活動が最も盛んに行われたのは清代の康熙朝(1661-1722)の後半30年のことである。西洋の医者による中国宮廷での医療行為は、古くは元代に遡り、清代前期の宮廷における医療行為は決して特別という訳ではない。しかし当時、西洋医学は正に近代医学へと転換を遂げており、中国の宮廷に伝来した西洋医学もまた当時の最新レベルのものであった。近代医学はなぜ、この機会に中国に根を下ろし、発展しなかったのだろうか?

報告②「公私の間:唐宋時期の太廟祭祀の変遷」  朱 溢(復旦大学文史研究院 副教授)
【報告概要】
 中国古代に太廟(皇帝の祖廟)で行われてきた祭祀には、「公」と「私」という二つの属性がある。「公」的側面とは、太廟祭祀が皇位継承の合法性の象徴ということである。「私」的側面とは、それが皇帝と皇室の祖先崇拝の形式の一つであることを言う。
 帝政時代全体を通じて、「公」的側面が主要な地位を占めており、それは唐宋時期も例外ではなかった。注目に値するのは、「私」的側面が唐宋時期に不断に突出し、また太廟祭祀の様相に変革が加えられ、それによって漢魏以来、形成されてきた太廟祭祀の様式に大きな変化がもたらされた点である。
 本報告では、太廟祭祀における皇帝および皇室の祖先への追想的要素が唐宋時期に強化された点について、「天子七廟」制度の破壊、太廟の主管機構の太常寺から宗正寺への転移、祭祀を司る官員の身分の限定、廟室における一帝一后形式の打破、日常の飲食要素の太廟の供え物への浸透という、五つの側面から論じる。それによって、皇帝が自らの権力を利用して伝統的な礼制を改造した点や、正統勢力の反対と抵抗、およびそれによってもたらされた太廟祭祀改革の変動、折衷、妥協について明らかにしたい。

皆様のご参加をお待ちしております。どうぞ宜しくお願いいたします。



登録種別:研究会関連
登録日時:ThuDec2916:00:132011
登録者 :大野・藤岡
掲載期間:20111229 - 20120112
当日期間:20120112 - 20120112