イスラーム地域研究5班
研究会報告

「知識と社会」研究会第1回研究会報告

日時 : 7月3日(土)14:00〜
場所 : 東京大学東洋文化研究所・3階第1会議室

 「知識と社会」研究会では、7月3日(土)に第1回の研究会を開催した。研究発表は、佐藤健太郎氏(東大・院)による「「新奇」な祝祭〜マグリブ・アンダルスにおける預言者のマウリド導入をめぐる議論(7/13〜9/15世紀)」であった。
 佐藤氏は、13世紀中葉以降にムハンマドのマウリド(誕生祭)が行われるようになったマグリブ・アンダルス両地方における、この「新奇」な(氏はこの言葉をビドアの訳語として用いる)祝祭をめぐる議論を、(1)この祭の導入者アザフィーの議論、(2)ワンシャリースィー編纂のファトワー集にみられる祭導入以降の議論、の2つに大別し分析した。アザフィーは、ムスリムがキリスト教の祭を祝っていた当時の状況を「正す」ために、ビドアという観点からはそれらキリスト教系の祭と何ら異なることのないマウリドを導入し、それらの祭に代置しようとしていた。また、マウリド導入後の諸ファトワーの分析からは、それらのファトワーが、全面肯定論(神秘主義のサークルとの関連が指摘される)、目に余る逸脱行為がなければ是認してゆこうとする条件付き肯定論、否定論に分類され、(1)条件付き肯定論が大勢であったこと、(2)それらのファトワーにおける議論が、マウリド付随の諸慣行を善きビドアとみなすか否かに収斂し、ムハンマドの誕生日を祝うという行為自体の是非に関する議論はみられなかったこと、が指摘された。

 氏は、本論に入る前に、マウリドを巡る議論を「知識と社会」研究会で取りあげるに当たっての狙いを述べた。それによると、氏の関心は、イスラーム法、およびその担い手であるウラマー(氏によると「イスラーム世界における知識の担い手」)と、社会との間の相関関係の分析にあり、その際の着眼点こそがビドアである。ビドアという概念は、それ自体「「新奇」な行い」を指すに過ぎない。したがって「コーランやスンナを法源とする」イスラーム法に規定の見あたらない「新奇」な慣行を、容認したり、否定したりするウラマーの営為の中に「知識と社会の相関関係」を見いだしうるとするのである。

 氏は、以上のような問題関心にもとづいて、マウリドをめぐる議論の分析を以下のように結論づけた。すなわち、ムハンマドの誕生日を祝うこと自体の是非を議論の俎上にのせず、祝祭に付随する様々な慣行の是非を論じながらも大筋として祝祭の存在自体は認めてゆくウラマーの態度は、「イスラームの深化」とも「イスラームの堕落」ともとりうる現象、すなわち民衆が彼らなりのイスラームの解釈を行うようになったことを反映しており、そのような事態への知識人側の妥協的態度をも示している、とした。

 この明快な発表に対し、討論において、多くの実りある質問や批判が提出された。個別事項に関するものを省き、それらの議論を整理しつつ述べるとすると:(1)イスラーム法学の捉え方関連:佐藤氏が「コーランとスンナ」を法源とするものとして、いわば非常に固いイメージで規定し、それと「現実社会とのずれ」を論じたイスラーム法学に関し、イスラーム法学それ自体がそもそも固定的なものではなく、社会の諸状況を絶えず取り込む柔軟性をもったシステムである、との指摘がなされた。これに関連して、スンナの実体であるハディースに関しても、氏の扱い方はハディースの固定性を無批判に前提としているのではないか、という指摘がなされた。(2)ウラマーのイスラーム vs 民衆のイスラームという二元論関連:結論部で述べられた「民衆イスラーム」というような概念に対して、批判が出た。これに対し、佐藤氏は、スーフィズムなど、それまでのウラマーのイスラームにはなかったものが生じてきて、それがウラマーに認められるという過程に着目するとき、用語の問題は別として、ある二元論を措定することには意義があると反論した。

 これらの問題群は、ともに「知識」「伝統」といった概念の根本的な捉え方にまで遡って考えることができるものであり、議論はその方向で展開した。個々の法学者の法的判断の背景に政治的・社会的諸関係の存在をみれないかといった質問なども、「知識」が、超然と存在するものなのか、あるいは現実の政治的・社会的諸関係の中で、様々な「資源」のひとつとしてやりとりされる性質のものなのかといった、より本質的な問題意識を背景に提出されていたように思われる。そのような議論の結果、「知識と伝統」「知識と権力関係」などの、今後の諸発表において意識され、継承されてゆくに値する諸問題が浮き彫りになったと思われる。

(文責・森本 一夫)


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