イスラーム地域研究5班

98年秋アルメニア、グルジア調査報告

報告者は昨年9月から10月にかけて、コーカサス3国のうち、アルメニア、グルジアを訪れる機会を得た。本報告の主旨は、わが国のおいてかの地の情報が非常に限られている現況を鑑み、現地で実際に見聞した現在のコーカサスの状況について、現地の印象、各国の政治、経済などの状況、そして学術研究機関の紹介を行い、基本的な情報の共有を図ることにある。未だ大使館も開設されず、学術交流もこれまでほとんど行われてこなかった地域ではあるが、ソ連時代から中東史研究の水準の高さは著名であるし、また、あらゆる意味においてその地政学的重要性は冷戦の終結後、富に増しており、関心を持つ研究者諸氏に少しでも益するところがあれば幸いである。

「アルメニア」

アルメニア共和国の首都イェレヴァンへはモスクワから空路で約3時間半かかる。ここまで南に下がれば、中東の香りが色濃いことも当然であろう。また、筆者の専門とする前近代イラン史においても重要な交易都市であり、サファヴィー朝がこの都市の支配権を巡ってオスマン朝と幾度となく直接戦火を交えた地ではあるが、今世紀初頭にはごく小さな地方都市に過ぎなかった。今日の百万都市の姿を整えたのはロシア革命後であり、若輩ものの筆者に半日付き合って市内を案内してくれた考古学者ハイク・ハコビアン氏によれば、市内目抜き通りの建造物の多くは1950年代に建てられたという。古代ウラルトゥに遡るその歴史の古さの一方、比較的若い都市との印象を受けた。

市内は想像に反してまったく落ち着いており、人通りも多く、活気もあった。一方で偶然訪れた市内のアパートは廃墟さながらであり、市民生活が満足できる水準にはほど遠いことも事実のようである。本屋は数店舗営業しており、各研究機関内でも研究書が販売されていた。ただし、特定の研究書を探し求めるのは困難であり、直接研究機関、研究者に直接問い合わせるか、週末に開かれる野外市場に頻繁に足を運ぶ必要があるといえる。

政治・外交面について簡単に触れれば、国内情勢は安定し、政権の交代による動揺も表面的にはみられず、国内に少数民族を抱えていない強みも現地の人々が強調するところである。ただし、皮肉なことに共和国外のコーカサス各地域に分散して居住するアルメニア系住民の問題=アゼルバイジャン(ナゴルノ・カラバフ)、グルジア(アブハジア、アハルカラキ、トビリシ)と無縁でいることはできない。国民国家の成立により、各国で「少数民族化」したマイノリティーが苦渋を舐め、その中でももっとも苦難の道を歩んできたアルメニア人はソ連からの独立によって「純然たるアルメニア人の国」を獲得したが、共和国の安定と周辺に散らばる同胞支援の問題が両立しにくいのは歴史の皮肉である。外交では対ロシアは当然のことながら、国境を接する大国イランとの関係に特に注意が払われており、親近感も非常に強いようである。筆者の滞在中にイラン、ギリシアと協約、アフガニスタン、キプロス、ナゴルノ・カラバフでの権益擁護で一致したが、この結びつきは(物質的な利害や現実とは別に)あくまで理念的に捉えればともにアーリア系で非スラブ、トルコの結びつきと無理すれば解釈できるかもしれない。もちろんアメリカ、フランスを中心に欧米の各コミュニティーとの連携が図られていることは言うまでもない。

教育・研究機関について触れれば、東洋学研究所はじめアルメニア科学アカデミーの各研究機関、イェレヴァン大学、アメリカ大学などが存在する。また、マテナダラン写本研究所(3万点のアルメニア語写本、他言語写本も2793点、文書は10万点)も中東研究の上で重要な史料を多々保有している。筆者の個人的な関心から言えば、東北大の北川教授にご紹介いただいた中世史研究の代表的研究者の一人パパジャン教授に是非ともお会いしたかったが、残念ながら少し前に亡くなられており、かわりにサファヴィー朝の商業史研究を専門とするハチキャン女史に話を伺うことができた。また、イラン研究に関してはガルニク・アサトリアン教授の率いるイラン・センターの活動も活発であり、氏のイニシアチブで学術雑誌も公刊されていた。この他、テヘランでアルメニア語、ペルシア語双方で出版された研究書も入手できた。国際シンポジウム「アルメニアとキリスト教オリエント」については別途紹介したが(中東学会ニューズレター)、公式には301年とされるアルメニアのキリスト教受容をテーマに主に西欧諸国からの参加者を中心に開催された。このように現地での困難な社会状況の中にあって、海外の研究者との協力が模索されていた。

この学会ではパリでアルメニア学を講じる研究者と知遇を得たが、氏の両親は東アナトリアの出身で、自身はシリア育ちであった。したがってアラビア語社会で成長し、高等教育はフランス語で学んだそうである。家庭では当然アルメニア語かと思いきや、両親が普段用いたのはどうやらトルコ語だったらしい。ご本人はできるだけ使いたくないそうだが、奥さんはイスタンブール出身のアルメニア人と言うことでトルコ語に馴染みは深いようである。奇しくも投宿したホテルではチェスのジュニア世界大会が開催されており、一歩ホテルの外へ出れば、お年寄りが道端でナルディに興じていた。テレビに移るのはロシアとトルコのテレビであり、グルジア以上に中東の香りがこの街には漂いながら、街角で道を尋ねると流暢な英語で返ってくるといった二面性は筆者に強烈な印象を与えた。

「グルジア」

イェレヴァンからトビリシへは空路で僅かに一時間十五分、時差の関係で16時に離陸し、16時15分に到着した。筆者にとっては3年ぶりの訪問であるが、空港の内部は一新され、市内の印象も大通りには自動販売機やユーフォーキャッチャー、西欧風のカフェ、マクドナルド建設工事も着工して、戒厳令解除後日も浅く、店舗内の営業がまばらであった前回訪問時とは隔世の感であった。もっとも市民生活は一向に改善しておらず、電力、水道水の供給、電話回線ははなはだ不安定であり、広がる格差(発電器、温水器完備の家も)や高い物価を反映してか通りには物乞いの姿も多く目についた。

政治面では、相次ぐ混乱と経済危機の表面化によるシェヴァルドナゼ体制の弱体化の一方、かねてより対抗軸として注目されていたアチャラ(アジャリア)自治共和国の指導者であるアスラン・アバシゼが反シェヴァルドナゼ色を次第に鮮明にしつつある。外交面では駐ロシア大使を新首相に任命するなど、ロシアへ一定の配慮を見せている。また、関連して北コーカサスの諸勢力、チェチェン(2月のシェワルナゼ暗殺未遂事件、国境にモスク建設、グロズヌイからトビリシへ抜ける道路の建設着工、グルジア領域内にすむチェチェン人の存在)、北オセチア、ダゲスタン(内部の民族対立が激化)の各情勢の動向に神経を尖らせている。北コーカサスの諸勢力が「イスラーム」を旗印に掲げているのはグルジアにとって昔も今も頭痛の種である。また、国内も依然難問続きであり、アブハジア、オセチア、アチャラの分離問題(特に5月のガリ事件)、トルコ・メスヒ人の帰還問題に続き、夏には南部アルメニア人地域で武装集団による挑発が続くなど新たな問題も浮上した。こうした問題への特効薬はなく、欧米への接近とトルコ・アゼルバイジャンと石油パイプラインを軸に連携し、経済的な成長によって国家としての求心力を高めようとしている。

その経済であるが、回復基調は根付いたものの(GDP二年連続二桁成長、98年度は7.5)、それでもまだソ連時代の数字を回復できていない。自国ブランド品(飲料水一般、ミネラルウオーターやビール)の出現はあっても、税収不足、通貨危機とこちらも難問続きである。

教育・研究機関に関しては、トビリシ大学がサマースクールを主催するなど、海外の関心に積極的に答えようとしている。東洋学研究所も中東から東アジアまでスタッフをそろえ、付属の語学大学としてアジア・アフリカ大学を発足させた。写本研究所、歴史学研究所といった各研究機関でもそれぞれ国際学会の開催や主に欧米で開かれる学会に招待されるなど、海外の研究者との交流に期待しており、西欧諸語でその豊かな研究蓄積の一端が披露されるときも近いと思われる。

以上、簡単に訪問の報告と昨年度の現地の情勢について雑感を交えながら記した。特徴的なことは、民族、宗教が国境を越えた拡がりを持つ以上、いずれも国内の問題を国内だけで解決することが困難でありながら、現代社会では国家秩序を前提としている上に、地域秩序を保ち、経済的に発展する上でも地域的な統合性が実際に必要不可欠であることにあるといえるだろう。特に難民を巡る問題は人間の流動性と国家・地域による存在規定について多く示唆を与えつづけている。

ソビエト連邦が解体過程への歩みを速めてからの過去十年間、この地域の人々を襲った政治、経済、社会的状況の激変は筆舌に尽くしがたい。相次ぐ民族浄化と紛争の泥沼化は大国の思惑も巻き込んで、コーカサスをバルカンと並ぶ火薬庫(ナゴルノ・カラバフ紛争、アブハジア、オセチアの分離問題、チェチェン戦争等々)とした。現在、大規模な戦闘は一時的に落ち着いているものの、現地の状況は予断を許さない。ただし、ようやく将来を見据えた布石を各国政府ともに打ち出そうとしている。

こうしたコーカサスの状況は一面的には地域権力としてのロシアの弱体化による「歴史の復権」とみえる部分もあるが、一方で全く新しい問題も含んでおり、それは宗教、文化、言語といった対立軸を利用している。プロジェクトリーダーの言葉を借りればこの地域にはまさに「現代人類社会の抱える問題が集約的に見いだされる」のであり、今後プロジェクトの内外・さまざまな分野において専門家諸氏との交流の輪が広がり、議論が繰り広げらる日を待ちたい。

付録 グルジアおよびコーカサス1998年政治史小年表

2/9 シェヴァルドナゼ暗殺未遂

2/19 西グルジアで国連職員誘拐(首謀者は3/31内務省部隊により射殺)

3月中旬 トルコ首相ユルマズ、トビリシ訪問

4/26 デミレル、アリエフ、シェヴァルドナゼ3者会談

5/13 北オセチア大統領トビリシ訪問

5月下旬 アブハジア帰還難民の再難民化(ガリ事件)

7/27 ニコ・レキシュヴィリ首相辞任

8月初旬 ヴァジャ・ロルトキパニゼ駐ロシア大使が首相に就任

8月中旬 南部でアルメニア人住民との対立が表面化

10/19 西グルジアのセナキ基地で反乱

11月中旬 アルメニア大統領トビリシ訪問

12月初旬 ラリ下落、通貨危機

3月 イングーシュ大統領再選

4月 アルメニア大統領にコチャリアン就任

5月 マハチカラで武装集団が国会を占拠

6月 ダゲスタンでマガメドフ再選

7月 チェチェン大統領暗殺未遂、ワッハーブ派禁令

9月 アゼルバイジャンでアリエフ大統領再選

10月下旬 チェチェンで大統領マスハドフと野戦司令官バサエフの対立激化 

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