研究班5 第一回合同研究会での報告
研究班5が目指すもの
後藤 明
内容
- 科学研究費創成的基礎研究とは何か
- 研究班5の組織と予算
- 研究領域を「創成」する背景
- 19世紀西欧の知の体系からの決別
- ネットワーク社会論
- 重層的な地域理解
- 地理情報システムの利用
1. 科学研究費創成的基礎研究とは何か
今年度からはじまった私たちの「イスラーム地域研究」は、科学研究費のなかの、
一般に新プログラム方式とよばれるもの、正式には「創成的基礎研究」という名の枠
組みでおこなわれます。私たちはかつて、「イスラムの都市性」という標題の「重点
領域研究」という科学研究費の枠組みでの研究に取り組んだ経験があります。その「
重点領域研究」と今回の「創成的基礎研究」はどう違うのか、という点の私の理解か
ら話をはじめます。
「重点領域研究」は、特定の研究領域を、我が国の学問の発展のために特段に重要
な領域であると認定して、その領域に重点的に予算を配分しようとする枠組みである
、と理解しています。「イスラーム研究」という分野、狭い意味での宗教研究として
のそれではなく、より広い文脈での「イスラーム世界」の研究が特段に重要である、
と認定されて、かつての私たちの研究があった、ということになります。その研究を
「都市性」という切り口で取り組んだわけです。その研究を通じて、新しい「知の枠
組」の形成を目指したわけですが、かなりの成功を収めた、と自負しております。
さて、今回の「創成的基礎研究」は、新しい学問分野を「創り出す」ための基礎研
究のための予算である、と理解します。このプロジェクトが採択された過程を振り返
りますと、「地域研究」という学問領域、その領域自体がまだ形成過程にあるわけで
すが、ともかくその大領域のなかで、新しい学問領域を「創成」することが期待され
ていることに気がつきます。私たちのプロジェクトが、「現代イスラーム世界の動態
的研究」という正式タイトルとともに、「イスラーム地域研究」という名称を合わせ
もつゆえんがここにあります。私たちは、これからの5年間の研究を通して、「イス
ラーム地域研究」という新しい研究領域を創り出す義務を負っているのだ、というこ
とになります。そのことが、地域研究という、発展途上にある学問領域の内実を豊か
にする結果をもたらすことが期待されているのです。
2. 研究班5の組織と予算
研究班5は、プロジェクト全体の枠組みのなかで、「イスラーム世界の歴史と文化
」を標題にして研究をおこないます。プロジェクト全体のリーダーは佐藤次高さんで
、このことは5年間変わりません。そして、研究拠点として東洋文化研究所が研究班
5を預かることも、おそらく5年間、変わらないと思います。研究班5の、すなわち
研究拠点の代表は、とりあえず私、後藤ですが、このことは5年の間に変わることが
あるかもしれません。
研究班5は、二つの研究グループよりなります。一つは、「生活のなかのイスラー
ム」を研究するグループで、Aグループと称します。もう一つは、「歴史のなかのイ
スラーム」を研究するグループで、Bグループと称します。それぞれのグループに6
名の研究分担者がいます。研究の進展につれて、このグループ自体が変化することも
考えられます。そして研究分担者もまた交代することも考えられます。グループや研
究分担者を固定的にとらえるのはやめよう、とするのが、今回のプロジェクトの特徴
の一つ、ということです。
班の研究は、研究分担者だけがするわけではありません。研究分担者以外の研究者
の積極的参加を求めていますが、科学研究費には、研究協力者というカテゴリーがあ
ります。研究分担者以外の方でも、予算措置をともなう研究活動、例えば海外調査な
どに参加できる仕組みです。出発に当たって、Aグループには3名の方が研究協力者
として登録されています。この方々には、1年、ないしはそれ以上の期間、研究分担
者とほぼ同等な立場で研究に参加されることが期待されています。この方がた以外に
、研究会での発表、コメントの提示、その他様々な形で参加される研究者が多数にの
ぼることが予想されますが、その際、出張旅費などの予算措置が必要な場合はその方
を研究協力者に指名していく、という形を取ります。予算には限りがありますから、
研究会などに参加希望者全員を旅費付きで招待することはできませんが、形式や肩書
きにはとらわれずに、自由参加の原則は貫きたいと考えます。
研究班5の予算ですが、予想よりは少なく、充分とは言えません。「研究拠点」の
ための予算は、事務をおこなう経費以外はないに等しいとも言えます。乏しい予算で
すが、ともあれそれを活用して、研究を進めていきましょう。
3. 研究領域を「創成」する背景
私たちは、「地域研究」という枠組みで「イスラーム地域研究」を新たに「創成」しようと試みるわけですが、その試みの学問的背景を、私なりに考えてみました。それは、以下の3点に集約されます。
- 19世紀西欧の知の体系からの決別
- 一つは、19世紀の西欧で創成された知の体系からの決別です。19世紀の西欧の知は、事物を分類して、それを進化論の概念を用いて整理しました。動物も植物も分類・整理したわけですが、人間の文化や社会も同様に分類・整理しました。そして進化し発展しているのは、西欧の文化や社会だけで、非西欧、それをアジアとかオリエントとかよんだのですが、その文化や社会は進化の袋小路に入り込んで、もはや進歩や発展がないもの、と考えました。進化のベクトルをもつダイナミズムが歴史研究の対象なのですが、それは西欧社会だけを対象にすればよいので、他の地域は動態的な歴史研究の対象ではなくて、静態的な観察の対象でした。日本学、シナ学、インド学など、あるいは文化人類学などの対象が、非西欧であったわけです。非西欧社会を西欧化するための西欧によるアジアの、オリエントの支配を正当化するという役割を学問が担った、とする「オリエンタリズム」批判は、学問にたずさわるものとして、真摯に受けとめるべきでしょう。
- 私たちの日本の大学は、19世紀の西欧の知の体系を輸入するために設立されました。そこに、清朝考証学に源をもつ中国学や国学を加えたものが、我が国の伝統ある大学の文学部や教養学部などの学科や講座であったわけです。しかし、歴史を振り返ってみると、19世紀のアジアは激動の時代でした。そのことを理解できなかった学問体系とは、もはや決別しなければなりません。「地域研究」とは、西欧をも、他の地域と同じように一つの地域とみなして、西欧を相対化する学問であらねばならない、と考えます。そして、私たちの「地域研究」は、地球上の、さまざまなレベルの「地域」を静態的に観察するのでははなく、変化のベクトルを探るべく動態的でなければならないことになります。私たちのプロジェクトの正式の標題が、「現代イスラーム世界の動態的研究」であるゆえんはそこにある、と信じます。
- ネットワーク社会論
- 第2の点は、共同体研究から個人がもつネットワーク研究への変化を見つめることです。19世紀から10年、20年ほど前までのアジアやアフリカ社会の研究は、部族共同体とか農村共同体などの共同体のありようの研究が主流でした。共同体から離れた脱共同体的な個人は本来あってはならないもので、アジアやアフリカの、あるいは伝統的なアメリカ先住諸民族は、共同体に埋没して生きているのだ、とする理解です。自律した個人などというものは、近代西欧の独占物であったわけです。私たちのかつての「イスラムの都市性」プロジェクトでは、個人を包み込む「共同体」ではなく、都市的に生きる人々がつくっている「都市的な社会」を、イスラームというものが7世紀からつくってきた、という予感をもって研究を始めました。「都市的な社会」とは、一人一人が自律している個人の集合体であることは、自明の前提です。イスラームの原点である7世紀のメッカの社会は、そのような「都市的な空間」であったと、私は考えています。そこから出発したイスラーム世界を、排他的で自己完結的な「共同体」がモザイク状に併存している、と考えた19世紀以来の西欧のイスラーム社会研究は、根本的に間違っているのだ、とする問題意識が、「イスラムの都市性」プロジェクトの背景としてあったと思います。
- 一人の人間のすべてを包み込んでいる「共同体」は、過去にも現在にも存在しないのではないでしょうか。一人一人の人間は、他人とさまざまな関係を結んで、生まれてから死ぬまで生きています。数十年という時間の幅のある一人の人間の人間関係を、「共同体」のなかに閉じ込めて観察したのが、共同体研究でした。共同体の枠を超える人間関係は、観察しないように努めていたわけです。一人の人間は、生まれながらの血縁、結婚による新たな血縁、教育を受けた仲間や先輩・後輩の縁、職業による縁、戦争などの紛争の際の敵・味方、などなどさまざまな縁によって、多層的、多重的な人間関係の枠組みのなかで生きているのではないでしょうか。一人の人間は、一つの共同体ではなく、同時並行的にいくつもの集団の構成員なのです。幾種類もの人間関係、つまりさまざまな人と人とのネットワークのなかにいる人間が集まっているのが人間社会なのではないかと思います。
- 「イスラムの都市性」プロジェクトでは、ネットワーク社会が、キーワードの一つでした。この言葉の理解は、必ずしも一致していたわけではありませんが、排他的・自己完結的な共同体社会ではないものを指していたことだけは確かです。これからの私たちの研究も、一人一人の個人がもつ多層的・重層的なネットワークの総和としての社会に注目しなければならないと思います。
- 重層的な地域理解
- 私が考えている第3の点は、地域を個別的にではなく、重層的にとらえたらどうか、ということです。私は、長い間、7世紀のメッカ社会について研究してきました。そこで、7世紀のメッカとその周辺という時間と空間がきわめて限られた「地域」を一つの例として取り上げてみます。
- 当時の小地域としてのメッカは、私の言う「パンと乳」の文化圏、すなわちそのような食文化を共有する大地域の一部でした。麦を栽培して、その実を粉にしてから水を加えて練って、それをオーブンで焼くという技術体系は、紀元前6000年ごろ、中東の「肥沃な三日月地帯」で確立しました。そして山羊や羊などを飼養して、その乳を搾り、バターやチーズ・ヨーグルトなどの乳製品をつくるという技術も同時に同じ地域で開発されました。その「パンと乳」を主要な食糧とする文化が、ときとともに広がっていきました。アルプス以北のヨーロッパは、その文化圏にかなり遅れて、おそらく10世紀ごろから含まれるようになりました。我が国は、その文化は、ヨーロッパ経由で伝わったものの、未だに本格的にその文化圏に入った、という状態ではないと思います。メッカを含むアラビアは、遅くとも紀元前1000年期には、その文化圏に入った、と想像されます。
- メッカの街は、岩だらけの谷底にあり、そこでは農業はできません。しかし、メッカ周辺、数百キロ四方程度の空間を想定すれば、あちこちにオアシスがあり、麦栽培がなされていました。しかし、この地域は、天水に頼って麦栽培ができるほどの雨量には恵まれていません。したがって、小規模のカナート(灌漑施設の一種)をつくって灌漑する、という技術が、ここでの麦栽培には必要です。そのような技術がアラビアに伝わって、メッカも「パンと乳」の文化圏に参入していった、という歴史の過程が想定できます。7世紀のメッカは、当時おそらく東はインダス河流域・中央アジアから、西は地中海世界にかけての広がりをもっていた、「パンと乳」の食文化を共有していた大地域の一部であったわけです。
- 7世紀のメッカは、食文化だけを取り上げても、さまざまな「文化圏」、すなわち「地域」の一部でした。ナツメヤシ文化圏、葡萄酒文化圏、ラクダの乳や肉を食べる文化圏、などなどです。それぞれの文化圏は、それぞれの広がりをもった「地域」ととらえることができます。
- 食文化だけが人類の文化ではないことは明らかです。言葉や文字を例にとれば、メッカはセム系の言語圏、そのなかの北アラブ語圏にあり、また、北アラブ文字文化圏のなかにありました。そして、先のプロジェクトで検討したように、メッカは、中東を中心とする都市性の豊かな地域の一角でした。7世紀のメッカが含まれていたさまざまな「地域」は、歴史を通してつくられてきました。それらの地域をつくる歴史のダイナミズムと、地域の空間的な広がりが重なり合って、7世紀のメッカとその周辺という小地域が存在していたことになります。
- 昨年度まで、京都大学の東南アジア研究センターを中心にして、「総合的地域研究」プロジェクトがおこなわれていました。そこでの議論の中心は、世界を、この地球を、どのような地域に分割したらよいのか、あるいは、東南アジアなら東南アジアという地域概念は成り立つのか、という問題意識であった、と私は理解しています。世界を構成している単位としてのいくつかの、あるいは数十の、あるいは百を超えるかもしれない地域という捉え方です。そこでの地域は、そのひとつ一つが単位であって、地域を重層的にはとらえていません。このような「地域研究」は、従来の地域研究の主流であって、それ自体は学問的に意味のあるものです。しかし、地域をもっとダイナミックな変化と重なりをもって理解する研究もあってしかるるべきだと、私は思います。
以上の3点が、「イスラーム地域研究」の始まりに当たって私が考えたことです。私の考えを研究班5の基調にすべきだ、などとは主張しません。歴史研究者と文化人類学研究者の対話をキャッチフレーズにしている研究班5という枠組みでの研究への、一つの問題提起とお考え下さるようお願いいたします。
4. 地理情報システムの利用
今回のプロジェクトの特色の一つは、地理情報システムを地域研究に適用することです。このシステムは、私たち人文・社会系の研究者にとってはなじみのないものですが、人工衛星からの地表の画像などさまざまな空間情報をコンピュータを使って処理するシステムで、これからの地域研究には不可欠のものになることが予想されます。このシステムを使ってどのような研究が可能なのか、まだその具体像はみえていませんが、私たちの研究班5にとっても、さまざまな試みをしてみる必要があると考えます。これからの5年間で、このシステムで研究する方法を開発してみませんか。
以上で、研究班5の拠点代表としての私の話をおしまいにします。