イスラーム地域研究5班
研究会報告

bグループ国際商業史研究会第12回例会報告

日時  : 2001年11月3日(土)13:00〜17:00
場所  : コンソーシアム京都・2階第3会議室
参加者数: 12名
大黒俊二「書評・亀長洋子『中世ジェノヴァ商人の〈家〉』」
塩谷昌史「19世紀前半のアジア綿織物市場におけるロシア製品の位置」
四日市康博「元朝・イル=ハン朝におけるフランク商人」

<概要>

 まず大黒俊二氏により、亀長洋子著『中世ジェノヴァ商人の〈家〉―アルベルゴ・ 都市・商業活動―』(刀水書房、2001年)について書評がおこなわれ、本書のねらい、 人的結合としての「家」の探究、この「家」とかかわりをもつ商業・植民・公債など 中世ジェノヴァ史の一般的問題の分析、の三点にわたり紹介・論評がなされた。フィ レンツェ中心の従来のイタリア家族史研究に対して一石を投じ、同時に曖昧なままに 用語だけが流通した「アルベルゴ」概念の批判的検討を実践した点など、本書の重要 な貢献が評価されたが、同時に叙述・概念の未整理など、一層の改善の余地も指摘さ れた。討論でも以上の論点のほか、「ジェノヴァ型個人主義」と「ヴェネツィア型国 家主義」を対比する通説の妥当性など、より一般的問題も論じられた。
 つぎに塩谷昌史氏の報告があり、それにつづく質疑応答では、綿織物業における技 術問題から技術伝播過程、さらに市場への適合性などをめぐり、以下のような質問が 出された。すなわちロシアの綿糸は何番手か、また綿花はどこから輸入していたか? ロシアの綿布捺染はどのように始まったのか、そこには西ヨーロッパ・南アジア方面 から専門技術者・職人の導入がともなったか?英国製綿織物はライプツィッヒまでど のようなルートで運ばれたか?ロシア製綿織物はアジアでどのような用途に使われた のか?近年の経済史研究一般に関わる問題点のひとつは、いわゆる「マーケティング」 による市場拡張という説明が妥当する度合である。消費者の需要について詳細な情報 を収集し、市場に適した商品を供給する努力は、たとえば中世・近世の地中海貿易で すでに広くみられる現象であり、19世紀の資本主義とともにはじまる新現象ではない。 生産者と消費者をむすぶ適合的関係の成立は、個々の企業家の努力をこえる文化史的 背景の同質性・異質性の度合に影響され、ロシアのような広大な帝国に分布する市場 を分析するには、この点の考察が不可欠になるだろう。
 最後に四日市康博氏の報告があり、それをめぐる質疑応答では、専門外の研究者が 多いためもあり、基本的な事実確認や史料・文献情報にかかわる質問が大半だった。 その一端を紹介すれば、モンゴル時代の商人について、どんな参考文献があるか?― イタリア商人に関してはPetechの研究が総括的、オルトクと呼ばれる特権御用商人に ついては宇野伸浩、森安孝夫、T.Allsen、Endiott-Westなどの研究が現在も進行中、 J.Abu-Lughod, "Before European Hegemony"が参考文献の参照に便利。フランチェス コ修道会の東方布教と商人の関係は?各地の商人たちの痕跡―元朝カーンの派遣使節 サヴィニョーネのアンダーロの「サヴィニョーネ」はジェノヴァの有力家名、北京に もイタリア商人の碑文があり、カラコルム・バルハシ湖にアルメニア商人の墓碑あり。 モンゴルのハトン(妃后)とは、他の王族たちも含めた象徴的な呼称では?―そのと おりだが、ただし実際にオルド(移動天幕・宮廷)の管理者だったのはハトン、など。  今回は他の複数の研究会と日程が重なり、そのため参加者数もやや少なかったが、 ロシア・モンゴルというユーラシア規模の国家を舞台とする広域経済を対象とする報 告があり、イスラーム研究者とヨーロッパ研究者の対話に格好の場が提供された。こ のような対話の場を恒常的にあたえる数少ない会合として、国際商業史研究会の存在 理由を再確認させる機会になったと思われる。 (文責・深沢克己)

<報告要旨>

1. 塩谷昌史「19世紀前半のアジア綿織物市場におけるロシア製品の位置」

 19世紀前半にロシア綿工業は初期的な発展を遂げ、19世紀半ばには綿糸生産量は世 界第5位にまで到達する。ロシア製綿織物は1820年代後半よりアジア地域(ペルシア、 中央アジア、中国)へ輸出されたが、ペルシア向け輸出は不振だったが、中央アジア ・中国では一定程度成功した。通説では、西ヨーロッパ諸国と比べロシアは後発工業 国であり、ロシアの製品の品質は西ヨーロッパ製品よりも劣り、ロシアの綿織物は、 西ヨーロッパ製品の供給されない中央アジア・中国でのみ輸出が可能であったと考え られてきた。
 帝政ロシアの対外貿易局が毎月発行していた『工場と貿易に関する雑誌』(1825年 −1861年)に基づき、タブリーズ(ペルシア)、ブハラ(中央アジア)、キャフタ (中国)の各綿織物市場で、綿織物の種類に着目し、検討すると次のような結果が明 らかとなる。ロシアはタブリーズ市場に更紗とキャラコを輸出するが、英国製の更紗 とキャラコに競合できず撤退する。一方、ブハラ市場ではロシア製更紗は英国製更紗 と互角に競争可能であり、キャフタ市場ではロシア製綿ビロードが英国製を駆逐した。 ペルシアだけでなく他の市場にも英国製品は輸出されていたが、ロシア製品はブハラ とキャフタの綿織物市場では英国製品に善戦したが、その背景にはロシアの生産者が 現地の消費者の情報を探り、市場に適した製品を開発し輸出していたからであると考 えられる。

2. 四日市康博「元朝・イル=ハン朝におけるフランク商人」

 ユーラシア大陸規模の版図を有したモンゴル帝国治下には、多様な民族・宗教の国 際商人たちがいたが、そのなかにはフランク商人たちも含まれていた。フィレンツェ ・バルディ商会のペゴロッティによれば、モンゴルのいうフランクとは、「ルームの 地(ビザンツ領)から西の全ての国々のキリスト教徒」であるという。そこで本発表 では、彼らとモンゴル政権の関係を解明しようとした。利用した史料は、多様な言語 によるモンゴル西欧外交書簡、イタリア商人の公証人文書、『商売の手引』、旅行報 告などである。
 まず、イル=ハン朝下のフランク商人の一例としてブスカレッロ、トンマーソの二 人を取りあげた。共に西欧派遣使節に任じられ、タブリーズ、カッファなどを拠点と して商業活動をしていたジェノヴァ人である。また、両者はモンゴルの侍従親衛機構 ケシクに属し、イル=ハン個人と直接的な繋がりを持っていた。商人たちがモンゴル 政権下で活動基盤を築くには、モンゴル王族、アミール(重臣)、タジク官僚などの 庇護を受ける必要があり、とりわけ、イル=ハンの王族のオルド(宮廷)に出入りす るのが早道である。実際、その経路で宰相になった商人も少なくない。フランク商人 の場合、キリスト教徒のハトン(后妃)のオルドと関係を結んだことが想定される。 実際、ローマ法王宮にはキリスト教徒のハトンの情報が子細に伝わっていた。  さらに、元朝下のフランク商人研究に関するトピックとして、『商売の手引』とし てのマルコ=ポーロの史料性の見直し、フランチェスコ修道士の東方布教活動とジェ ノヴァ、ヴェネツィア商人、アルメニア商人の関わりなどを提示し、今後の展望とし て、モンゴル史、イスラーム、イラン史研究とイタリア史研究の各成果の結びつけ、 公証人文書の利用などを提言した。

(文責:深澤 克己)


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