イスラーム地域研究5班
調査報告

cグループ「比較史の可能性」現地調査報告
(インドネシア、中国、エジプト・シリア)

調査参加者: 岸本 美緒(東京大学)、関本 照夫(東京大学)、三浦 徹(お茶の水女子大学)
調査先  : インドネシア、中国、エジプト、シリア
調査期間 : 2001年8月31日−9月16日

 比較史研究会では、これまで所有、契約、市場、公正をテーマに7回の研究会を行い、参加者のあいだで、当該の地域(中国、東南アジア、中東イスラーム)について、共通の理解が生まれつつある。12月21-22日の研究会(神戸大学)では3年間のまとめの討論を予定しているが、今回の現地調査は、頭のなかの抽象的なモデルを、現地の自然環境と社会環境のなかで検証することを目的として企画された。予算と日程の関係で、幹事3名がインドネシア(ジャカルタ)、シンガポール、中国(広州)、エジプト(カイロ)、シリア(アレッポ、ダマスクス)を15日間で回るという強行スケジュールとなったが、それぞれの地域では、つぎの点を共通の調査項目とした。

1−都市の居住形態。とくに伝統的な街区における住居と道路の配置、社会生活
2−市場。とくに都市の常設店舗の形態、露天商、商品の種類、商いの方法(値切り)、男女の役割
3−農村。耕作地の配置と灌漑、居住形態、生産物と流通経路
4−宗教施設。モスクとヒンドゥー・仏教・道教施設との比較、女性の扱い、社会生活における役割の相違。

以上の4つの地点から、所有・契約・市場・公正のあり方を垣間見ることを課題とし、必要に応じて、資料の収集とインタヴューを行った。  以下、上記のテーマにそって、現地での調査にその後の議論を加えて、分担して報告する。

1. 都市の街区について (三浦 徹)

1-1構造の類似性
 アラブ・イスラム都市の特徴として、細街路と中庭式住宅によって構成された街区(ハーラ)が、日常生活のうえで、また行政上・政治上の単位となっていることををつねづね問題としてきたが、同様のものが、仏山、広州、シンガポールにも見受けられたのはショックだった。というのは、アラブ・イスラーム都市のハーラは、 a)高温乾燥の気候 b)女性の隔離 c)明確な私的所有権 という中東・イスラーム地域に特有な条件のうえに発達したと考えてきたからである。

<広州・仏山の街区>
 広州や仏山(市街人口38万、全市人口305万)では、里(り)、巷、街の呼称で呼ばれている。仏山では、2−3メートル幅の街路の両側に住宅が並ぶ里がたくさん残されており、民国時代のものとして、保存文化財に指定されている地区もあった(培徳里など)。
 祖廟の東側一帯には、このような路地(里)が連続している。なかでも、東華里と呼ばれる街区は、歴史的な地区として知られ、全長112メートルの路地に住宅が並び、両端には門で区切られ、さらに袋小路が分岐する。開いている戸口から中を覗き込むと、中庭がみえ、洗濯が干してある。住宅の壁には青色の石が使われ、伍氏宗祠は雨乞いなどの祭祀に用いられたという。他方で、このような里や小規模住宅の密集するなかに、広大で豪壮な梁氏邸宅(梁園、18世紀末ム19世紀前半)があるというコントラストも印象に残った。邸宅内には、池をめぐる庭園や廟もあり、中国の地方名士の財力の大きさには驚かされた。
 里の形態は、アラブ都市のハーラに酷似している。高村雅彦氏によれば(『北京』鹿島出版会、1998)、中国では、四合院と呼ばれる中庭式住宅が、三千年にわたって、華北から華南まで中国全土に広がる。住宅は、南向きを理想とし(風水論と日射し)、中庭を南北の軸に連結する構造をとる。このため、東西の細街路(北京では胡同とよばれる)にそって、住宅を並列させることによって、無駄のない区画割りができることになる。これに依拠するならば、中庭式住宅という物理的な共通性が、中国と中東の都市に、細街路にそって住宅を連結する街区を産んだことになる。
 先の3条件を比較してみると、aの夏期に高温乾燥するアラブ圏では、中庭式住宅や細街路は、日射しを遮りすごしやすい日陰をつくるが、広州近辺は、湿潤多雨で日射しを遮る必要がない。雨が多いと雨水が屋根から街路上に注ぎ、通行の障害となり、壁面を傷めることになる。これに比し、華北の自然環境は中東に近づくといえるのだろうか。bの女性隔離は、イスラーム法に基づくが、中国の儒教道徳でも、女性はむやみに人目につくことは控えられ、プライヴェートな空間は奥に配置されたという。cについては、イスラーム法では、ひとつの物件に対し、土地、建物、付属施設ごとに異なる所有権を設定すること、また、個々の所有権を複数の所有者で分割所有することも可能であり、密集した居住形態に対応ができた。中国では、イスラーム法のような明確な所有権の原理原則はなかったようであるが、民事的な契約については、国家による制約はほとんどなく、当事者双方の合意があれば、自在に所有権の設定ができたという。

<ジャカルタ>
 ジャカルタでは、市の中心部を片道4車線の大通り(スディルマン通りなど)が南北に走り、このような道路を建設できる権力の強さを感じた。その裏には、細い路地が網の目のように走り、密集した住宅街があるという。
 今回は、このような路地裏(カンポン)を実地に歩き回る時間をもたなかったが、倉沢愛子氏のフィールドノート(『ジャカルタ路地裏フィールドノート』中央公論新社、2001)と中国人街(金徳院、鳳山廟周辺)の様子からすると、中国やアラブ都市の街区とは違った印象をうけた。最大の違いは、家屋と街路の配置に規則性が感じられず、トルコのゲジェコンドゥ(一夜造りの家、スラム)のような雑然とした印象をうける。その原因として考えられることは、中庭式住宅のような住宅構造の規範がないこと、第二には、中国やアラブ都市では、なんらかの区割りのうえに住宅街が形成されたのに対し、いわば、白地にアドホックに住宅が建設されたようにみえる。インドネシアでは、所有権の登記が、住宅建設から何年も何十年もたってから国家によって行われ、庶民には、宅地所有権登記の習慣がない。このため、政府高官などによる強制的な立ち退きなどの不利益も生じたという(関本さんのご教示による)。
 以上は、ジャカルタという政治都市ゆえの特殊性なのだろうか。ジョクジャカルタのような都城都市では、都市構造に一定の規範があるのだろうか。他方で、シンガポールのインド人街やアラブ人街では、路地にそってカマボコ板を並べたような住宅街(街区)が散見された。これらはどのような経緯で形成されたのか、気になるところである。

1−2 社会的な絆
 ダマスクスでは、夕方になると、路上やカフェやあるいは個人の家々で、お茶を飲み談論する寄り合いが見られる(これらは男同士の関係で、女性は別の寄り合いをもつ)。そのような寄り合いのメンバーは、隣同士、職場、学校、親類などさまざまで、見知らぬ者が加われば、紹介しあう。街区にせよ、教団にせよ、このような自発的なつき合いの網の目のうえに成立している。
 仏山の祭礼では、祖廟の守り神である北帝を載せた山車が、市内の街区(但しこの場合は、里よりももっと大きな単位)を巡回し、街区では爆竹が鳴らされ、異なる地縁的集団のエネルギーが発露されるとともに、市の統合がはかられたという(明清時代)。このような街区の絆は、どのように形成されたのだろうか。
 ジャカルタのカンポンでは、隣組組織(RT)が、行政上の下部組織となり、住民登録や健康診断などの単位となるとともに、定期的な会合が行われ、自発的な相互扶助活動も行われている。この隣組組織は、私にはムラ的な集団に映る。雑多な出身・社会階層の人々が集まり、近くに住んでいる、という以上の共同性が感じられないのである。それは、隣組組織自体が、スハルト体制下で上から組織された官製の組織であり、また、倉沢氏のカンポンが、郊外に新しくできたということによるのかもしれない。
 関本氏は、今回のアラブ・イスラーム圏の調査経験から、あらためて、東南アジアは、基本的に農村的ruralな世界である、と述べるとともに、インドネシアは対の関係、パーソナルな関係だけの世界であることを再確認したという。この含意は定かではないが、私自身は、ジャカルタとインドネシアは数日の滞在とはいえ、自然環境と住民の多様性を感じた(日本の自然風土の地方性、多様性に近い)。そして、東南アジアは、この多様な人々に、中国人やアラブ、ペルシア、インド人、ヨーロッパ人が移動し、混淆している。つまりは、個、一対一のパーソナルな関係が強く、中規模の社会関係が生まれにくい、のではなかろうか。できるとすれば行政的な上からのそれか、でなければ、抽象的なレベルのスローガン、シンボル、宗教、芸能、国民文化になるのではないだろうか。独立後のジャカルタの都市改造が、ナショナルなシンボルとなるモニュメントを中心に配置するかたち行われたこと(モナスとイスティクラル・モスクは、いずれもスカルノによって1954年に起案された)は、これをよく表している(加藤剛「政治的意味空間の変容過程:植民地首都からナショナル・モニュメントへ」『<総合的地域研究>を求めて』京都大学学術出版会、1999を参照)。
 岸本さんは、中東・イスラーム圏において、社会集団と宗教施設のあいだの特定の関係性の有無を問うている。このような視点は私にはなかったが、あらためて考えると、特定の社会集団が特定の施設と結びつくという現象は、スーフィー教団や聖者廟を除けば存在しない。施設は、人間や集団のそのときどきの磁場となるだけである。これは、宗教施設が、ワクフ制度に基づいて建設・運営されるために、寄進者の手を離れて、いわば公共的な管理に移るからだろうか(中国の廟や寺院は、ヨーロッパの私有教会のごとく、寄進者との私的結びつきが強いのではないだろうか)。このように考えると、商店や賃貸住宅などもワクフ財であり、中東の都市の施設の大半は、私的管理ではなく、公的な管理に委ねられていることになる。たとえば、中東では、伝統的な市場(スーク)の商店に店主が住むことはないのだが、中国の都市では、商店に居住するのが一般的で、でなければ商品を盗まれてしまう、という。スークの安全を保障するなんらかの公的な管理・規制が働いていたことになる。これは、中国や東南アジア(インドネシア)の都市との大きな相違点かもしれない。

2,市場について (関本 照夫)

 ジャカルタでは時間の制約で、インドネシアの各地に無数にある市場(いちば)らしい市場を訪れる機会がなかったが、広州およびそこからバスで40分ほどの地方都市仏山では商店街を観察し、カイロでも商店街の観察を行った。やや時間をかけて詳しく市場を観察したのは、アレッポ、ダマスクスにおいてである。素朴な感想を言うなら、その巨大な規模、歴史性、かつての隊商宿をはじめとする施設の充実に圧倒的な印象を受けた。
 市場の研究というと、マクロなものと、ミクロなものとに大別されよう。前者はSkinnerが中心地理論を用いて行ったヒエラキカルな中国地域市場圏論に代表される。後者は売り手・買い手の行動、とくに両者間の持続的顧客関係、価格交渉・価格決定メカニズムの研究などに代表され、それが新古典派経済学で説明できるのか、できないのか、できないとしたらそれを市場の欠陥deficiencyに求め、欠陥を補う特有のバザール的行動様式としてモデル化していくのか、それとも既存の新古典派モデル自体が含む欠陥の証左としていくのかと言った議論が行われてきた。また市場の秩序が何によって保証されるのか、国家権力によってか、それともそれ以外の社会関係規範があるのかも論じられてきた。
 今回は短期間で言語の制約も受けた調査だったから、こうしたことを本格的に論ずることはできない。目についた外形的特徴から話を始めることにする。
 アレッポやダマスクスのスークでまず目立つのは、それが城壁に囲まれた、あるいは囲まれていた旧市街の中にあり、それもかなり大きな部分を占めていることである。ジャワ島において標準的な都市のプランは、町の中心にある囲壁に囲まれた宮廷、あるいは地方長官の住居兼役所の北側に、象徴的中心となる広場があり、その西側に大モスク、やや離れた北に市場があるというものである。
 なお、ジャカルタではこのプランは踏襲されず、大統領宮殿の南側に巨大な独立広場、広場の東側に大モスクがあり、古くからの2つの大市場、スネン市場とタナ・アバン市場は(今ではビル形式のショッピング・センターとなっているが)広場から東と西へかなり離れた場所にある。
 中東のスークが、アーケードに覆われ平行しまた交差する何本もの道路の両側に連なる商店街であって、町全体のプランの背骨をなしているのに対し、ジャワの市場は大きな道路に面した一大コンプレックスであって、内部には縦横に通路が走っているが、それは道路ではない。いわばジャワの市場は都市計画の根本を変えずにどこにでも設けたり移設することができる「取り外し可能」なユニットである。インドネシアにはSkinnerのモデルが応用できそうな大小の市場のネットワークが、都会と農村とを通じて広がっている。私の考えでは、ジャワの市場、そしておそらくインドネシアの市場一般は特に都市的な施設ではない。都市には必ず農村市場よりはるかに大きな市場があるが、都市の市場と農村の市場に本質的な違いはない。また都市の中にも中心の卸売的大市場とはべつに至る所に小市場があり、これは物理的外見から言っても農村市場と全く変わるところがない。一方、スークはまったく都市的な、都市を象徴する施設ではなかろうか。
 こうした違いはあるが、市場特有の様々な商品の氾濫と人混みのにぎわいがかもしだす、一種祝祭的な気分は、インドネシアの市場と中東のスークに共通している。同じ種類の商品を売る店が1カ所にかたまる傾向も共通している。このことは工業社会の市場と違うバザール型市場の特徴として議論されたこともあるが、東京の場合を考えても秋葉原の電器店街をはじめとして同様の現象が至る所に見られるのであり、情報探索の効率性、集客効果という点で商業に普遍的な現象と考えるべきではないか。
 市場の研究でしばしば取り上げられてきた話題に、売り手と買い手との値段交渉がある。今回の調査では各地の異なる言語に通じていたわけではないので、そこまで立ち入った観察はできなかったが、Alexanderによるジャワ地方都市の市場の研究では、生鮮食料品のように買い手が毎日の経験で値段の相場を知っている場合、売り手にとっても買い手にとっても値段交渉の可能な幅は小さく、交渉はきわめて短時間で終わるが、家具什器、布、衣服など消費者がまれにしか買わず相場を知らない場合、延々と1時間も続くことが珍しくないと言う。売り手は、仕入れ値にコストと利潤を足して妥当な売り値を考えるのではなく、今おなじような商品を仕入れるのにいくらかかるかを計算し、そこから妥当な価格帯を考えるという。ジャワにおいて厳しい表情、速いテンポで延々と続けられる交渉を見慣れている私には、スークの売り買いの場面にそうした厳しく長い交渉が見あたらない気がしたが、これは確かなところはわからない。インドネシアでもタイでも長く厳しい値段交渉は、おもに女同士で行われる。中東の場合売り手はかならず男であるということは、交渉のありさまに何か影響しているだろうか。
 東南アジアと中東の市場の一番容易に目につく相違は、前者では女の売り手が目立つのに対し、後者ではすべて男ということである。このことは時に東南アジアで女性の社会的地位が伝統的に高いことのしるしと言われる。収入機会の多い東南アジアの女性が、相対的に開放的で元気よく見えるのは確かである。ただ、タイやジャワの場合、女性の商人が多いのは、金儲けや厳しい価格交渉を不名誉なものと見なす社会観・人間観とも関係がある。男は徳・spiritualityが女より高いので、そうした行いに向いていない、ふさわしくないという考えである。これは商業賤視観のジェンダー版だともいえる。ジャワにもタイにも男の商人も少なからずおり、彼らは価格交渉が苦手でつい安く売ってしまうとか、高値で仕入れてしまうという事実はないので、このことをあまり強調すると誇張になるだろう。ただ一般の消費者の場合、男は値切りが嫌なので買い物を妻や女性親族に任しがちであるというのは、広く報告されている事実である。中国の文人エリート層には伝統的に、とりわけ宋代まで、反市場主義的な考え方があったと聞く(岸本さんのご教示による)。一方イスラーム化した中東社会にはそうした考えはまったく無い(三浦さんのご教示による)。商業、市場交換、個人の利得追求を悪とする観念が、裏に隠れた対抗イデオロギーとしてすらも全く存在しなかったとすれば、むしろ特異な例であり、比較史上の重要な論点である。
 市場の公正な規範は何にもとづいているかという大きな問題も、今答えることはできないが、それと関連して、誰が市場を管理しているかを考えてみたい。Skinnerによれば、中華帝国中期・末期の国家は市場に介入しなかったという。Mastersによれば、アレッポではヨーロッパと違って特定の他と切り離された商人層というものは発達せず、あらゆる階層、集団の市民が商業に関わったのだという。まだこれから勉強しなければならないが、どうも中東では市場は自治的、あるいは自主的に組織されていたのではないか。一方、インドネシア、タイでは国家ないし王権による市場掌握の伝統があった。王自身が最大の独占商人だったり、対外交易市場を王室が一元的に管理し、しばしば外部者・よそ者に取引を独占させたり、あるいは、市場の管理・徴税権を請負に出して華人に売ったりするケースである。現在のインドネシアでは市場は市役所など地方政府が管理している。とはいっても市場の建物を新築・改築し、商人から毎日使用料を取るくらいで、それ以上に価格を統制するとか、紛争を調停するといった管理はしていない。これは現代の政府にとって町や村の市場はさしてうまみのある対象ではなく、深く介入してもコストが引き合わないからである。これに対し外国との特定商品の輸出入など大規模な商業は、政府が独占権を設定して特定の大商人に任せ、その利益の一部を公式・非公式に徴収することが、独立後のインドネシアでも行われてきた。商人の自治組織などはなく、個々の商人はそれぞれの相対関係で商売をしている。中国、中東ではどうなっているだろうか。

3,農村について (関本 照夫)

 今回の調査では時間の制約があり都市の調査を中心においたので、農村を訪れて詳しく観察したのはエジプト、ナイル・デルタの村に限られた。インドネシアではジャカルタから西部ジャワ州州都バンドゥンへと抜けるプンチャック峠の近傍で短時間近郊農村を観察し、またシリアでは、アレッポからダマスクスへ向かう車窓から、農村を垣間見たにとどまる。以下では筆者のインドネシアでのこれまでの経験をもとに、中東地域との対比を試みる。
 ジャワ島をはじめとしてインドネシアの多くの地域が、年間を通じ一面の緑の繁茂するところであるに対し、ドバイからアラビア半島、紅海を横断しカイロに至る飛行機の窓から見えるのは、果てしない砂漠である。そして降り立って歩き回ったカイロ周辺はみごとなまでに一面の土色の世界であった。これに対しナイル・デルタ地帯に入ると一変して豊かな緑の世界となり、植生もジャワ島の低地沖積平野とよく似ている。ナイル河が中東においていかに特異な、そして人を引きつける場所であるかを実感した。ジャワ島の肥沃な農業地帯でも、19世紀末以来、植民地政府やヨーロッパ系農園会社の手によって細密な灌漑水路網が作られ圃場整備が進むのだが、ナイル・デルタの堰と運河ははるかに規模が大きい。ただし訪れたアブー・スィネータ村ではロバに引かせる揚水機が放棄されて、ディーゼル・ポンプが使用されているようであり、自然の恵みに依存する度合いはインドネシア、そして東南アジアでより大きいと言えよう。
 ジャワ島ですぐ目に入るのが水田であるに対し、アブー・スィネータ村はワタ、トーモロコシなどの畑作という違いはあるが、農地を一見したかぎり、すぐに目に付く両者の相違はなかった。大きく異なっているのは集落の形式である。ジャワ島では水田が広がる中におよそ50戸程度の集落が散らばっている。各農家は庭に菜園を持ち、マメ、イモ、葉菜類、バナナからココヤシその他の背の高い有用果樹まで土地は立体的にくまなく利用されている。それで外から見た集落は小さな森のように見える。一方、アブー・スィネータ村は数千人の巨大な集落(加藤博氏の言う塊村)を作っており、家々は2階建てであり、隣の家との間にはほとんど空間がなく、東南アジア、そしておそらく東アジアの村を見慣れた目には町としか見えない。人口増と屋敷地の分割の結果こうなったのか、もともとエジプトの農民には都市民のように密集して住む習慣があったのか、知りたいところである。ジャワの農民がこのように密集して住むことを強いられたら、環境はどこかスラム的になってしまうだろう。アブー・スィネータ村の集落にはそうした様子はなく、おのずと備わったような秩序がある。エジプト、シリアで痛感した都市的生活秩序の伝統の厚みが、ここにもしみ込んでいるのだろうか。東南アジアはやはり基本的に農村的ruralな世界であると、あらためて感じた。

4.宗教施設について (岸本 美緒)

  今回の調査旅行においては、各地域でいずれも、異なる宗教を奉ずる複数の宗教施設を訪問・参観することができた。ジャカルタでは、市内の大モスクと農村の小モスク、道教化した仏教寺院、カトリック教会、そして(広義の宗教的施設として)ナショナル・モニュメント(モナス)。広州・仏山では、道教の祠廟、孔子廟、仏教寺院、モスク及びムスリム共同墓地、そして(同じく広義の宗教的施設として)同姓の諸宗族によって共同で建設された族祠・書院。カイロでは、7世紀から19世紀に至る各時期の特色をもつ市内のモスク(及びマドラサ、墓)と農村のモスク、コプト教会、シナゴーグ、ダマスクスではモスク(及びマドラサ、墓)、カトリック教会、などである。ここでは、個々の宗教施設の特色については措き、比較の観点からいくつかの論点を提出してみたい。

4−1 都市の社会構造と宗教施設
 さまざまな宗教、生業、出自をもつ人々を包含しながら強弱の差はあれ一つのまとまりをもっている「都市」というものを考えた場合、そこでの社会統合のあり方と宗教施設との関係が興味深い問題となるであろう。ここでは、以下のような点に重点をおいて、考えてみたい。
(1)都市の「中心」のあり方。単一の中心か、複数の中心か、中心の不存在か。そうした「中心」性と宗教施設との関係。
(2)都市住民の宗教的・文化的な多様性が、都市の社会構造の上にどのように現れているのか。特にマイノリティの場合、分節的な集団をなしているのか、開放的ネットワークか。

<ジャカルタ>
 「中心」という点からいえば、ジャカルタは、まず港とその周辺のオランダの権力中心を基点としながら南にひろがり、特に戦後は、多様なエスニシティの流入民の居住するカンポンの無計画な拡大という形で発展してきた。それに対し60年代以降、ムルデカ広場のモニュメントなど象徴的な新たな「中心」が計画的につくられてくる。  巨大な(アジア最大ともいう)イスティクラル・モスクもその一環をなすものだといえよう。官庁街・ビジネス街・ショッピングセンターなど現代的都市建設が上からなされ、自生的に作られた庶民居住区との間に断絶が目立つところが、ジャカルタの特色と思われる。
 分節性という点からみれば、ジャカルタは混血社会だが、そのなかで異種混交しつつ新しい民族区分が成長してきたことは、山下晋司が指摘している。例えば中国系の人々(華人)について見れば、中国人街の商店・建物などの中国的特色は希薄であるものの、道教的な仏教寺院の喧騒は、華人社会(とくに台湾など)に特有の迫力を強く感じた(たまたまお祭りだったせいかもしれないが)。参詣者の間では、中国語(普通語)が飛び交っていた(福建出身者や広東出身者をつなぐ「共通語」として普通語が使われているのだろうか)。しかし、中国系(福建)の運転手さんの話によると、家族のなかで普通語が話せるのは、彼一人であるという。インドネシア華人の中国語運用能力は、華人に対する政府の政策の変化とともに、時期的にかなり異なっているということであり(関本さんのご教示による)、宗教的・言語的多様性を固定的でなく生成的に考えてゆく必要をあらためて感じた。

<広州・仏山>
 広州は、古代から、城内の行政機関と城外の港、という政治・経済の二重の中心をもちつつ発展してきた都市である。華南最大の都市として、六朝にさかのぼる仏教の古刹や、中国最古の清真寺といわれる唐代のモスク、また郊外の南海神廟(唐代の創設。今回は行かなかった)など、由緒ある宗教施設がたくさんあるが、都市の「中心性」を規定するようなものではない。
 それに対し、明清時代に天下四大鎮(鎮は、行政中心をもつ城壁都市に対し、その外にある商工業中心地をいう)の一つとして鉄器業や窯業で栄えた仏山の場合、羅一星氏の研究によれば、その「中心」は祖廟にあった。祖廟は、北宋のころに建設されたといわれる廟で、道教の神の一つである真武帝を祀っている。仏山における信仰の中心で、他の神々を従える宗教的ヒエラルキーの頂点にあると同時に、鎮の有力者が合議する地方政治の中心でもあった。行政機関をもたない鎮であればこそ、自生的な政治統合の中心が宗教施設に重なり合っていたわけである。現在の仏山は、周辺の旧県城クラスの都市を統括する仏山市として、高位の行政中心となった。祖廟は、信仰の中心というよりは「史跡」化しているようで、香をたく人も熱心に拝する人もいなかった。
 ジャカルタに比較すると、広州や仏山は絶対多数がいわゆる「漢族」で、エスニシティの多様性は少ない。しかしそのなかで、「少数民族」の一つに分類されるのが「回族」で、主にイスラーム信仰と生活習慣、民族的自己意識の相違により漢族と区別されている人々である(広州で会った回族の方々は、言語・風貌ともに漢族と変わりない)。現在の広州にムスリムは約7000人(居住地域は分散しているようだ)、モスクは3つある。そのうち最大の懐聖寺では、ムスリム以外は立ち入り禁止といって追い返された次の日には大いに歓迎されるなど、対応の幅が大きかったが、少数派ゆえに排他性も対外連帯感も強い形で出てくるのかも知れない。立派な写真集などを出版して仲間意識を高めるとともに全国・国外ムスリムとの交流を強調するその社会活動は、漢族のなかでの同郷会館や宗親会(同姓団体)の機能に類似しているように感じられた。即ち、分節的社会集団というよりは、開放的に広がってゆくネットワークの結節点といった機能である。

<エジプト・シリア>
 中東の都市を見て第一に感ずることは、モスクをはじめとする宗教施設のプレゼンスが大きいということである。高台から眺めて、あちこちに林立するミナレットの多さには感動する。そして、カイロでいえばフスタートにせよ、カタ―イーにせよ、シタデルにせよ、軍事的行政的権力の中心にはモスクが建てられ、またスークに隣接してモスクやマドラサがある。中東の人々の都市観はよくわからないが、もし都市の「中心」という観念があるとするなら、こうした宗教施設が、中心そのものでないとしても、少なくとも中心部の一要素であったといってよいように思われる。
 都市の社会統合におけるモスクの位置について、中国などとの比較で考えてみると、以下のような問題が考えられる。
 中国では都市の権力と宗教施設との関係について、いくつかの型があるように思われる。
1.一般の城市において行政権力の中心は県衙門(県の役所)などの行政機関にあるといえようが、城隍廟や孔子廟のように、行政ヒエラルキーと密接に関わりつつ設立されている宗教施設がある。2.仏山などを典型として、地域住民の実質的な自治が行われている場合、廟や会館(ほとんどが職業神などを祀る)がその拠点となることが多い。3.民衆暴動のときに廟で合議したり、学生運動のときに学校(孔子廟)に集まったりするなど、宗教施設が対抗的権力中心の場となることがある。中東イスラーム世界ではどうであろうか。
(1)モスクの多くは権力者の名を冠せられており、支配者の権威を象徴するものといえようが、そこに象徴されるものは支配者個人の権威なのか、それとも都市の制度的支配構造と結びついているのか。
(2)モスクやマドラサが、地方有力者の合議の場となることはあるのか。モスクは、一定のメンバーシップをもつ地域共同体と結びついているということがあるのか(「檀家」のように)。
(3)金曜礼拝におけるフトバをどう考えたらよいのか。「都市全体の意志」がそこ に現れていると考えられているのか。一つの都市に複数の金曜モスクがあって相互に抵触する場合はどうなるのか。
 さて、カイロやダマスクス、アレッポなどにおいては、多数派のムスリムに対して、キリスト教徒、ユダヤ教徒、コプト教徒などのマイノリティが存在するが、彼らの宗教的・社会的な活動のしかたは、ジャカルタの中国系の人々や広州のムスリムと比較して、どのような特色をもつのだろうか。今回、カトリック教会、コプト教会やシナゴーグを参観し、またキリスト教徒のお宅を訪問したが、中国の(ないし中国人社会の)少数派や外来者に特徴的に見られる活発な交際とネットワーク作りといった動きはあまり見られないように思った。

4−2 宗教施設と「敬虔さ」
 今回の旅行で強く感じたのは、宗教施設における雰囲気の違い、いわば「敬虔さ」の表現様式の違いといったことである。いまだ漠然とした疑問にとどまっているが、書き留めておきたい。
 モスクという場所がそれ自体聖なる空間であるのではなく一種の集会所であり、昼寝をしている人々もいる、ということは、知識としてはあったが、それを実見することができた。しかし、全く日常的な空間と同じかというと、現在でも、十分には納得できていない。
 「空間としての外部との非連続性」という点からすると、例えばカトリック教会などの場合は、入るときに聖水をつけ、また内部においては静粛で慎み深い態度をとらなければならない、という点で、内外の境目がはっきりしている感じがある。一方、道教の廟などでは、全くそのようなことはなく、極めて日常的な感覚で入ってゆけるし、なかで大声で商売の話をしたりしても、問題があるとは思われない。それに対し、モスクは、場自体が聖化されているのではないにしても、やはり境があるように感じられる。外の社会生活にまといつく挟雑物を払い落とし、神の前の一人のムスリムとして入ってゆく必要があるのではないか。したがって、特に肩肘張る必要はなく「昼寝」してもよいが、人間どうしのネットワークを作ったり「商談」「談合」をするような意味での「集会所」(例えば仏山の祖廟が果たしていたような機能)ではない、と思われるのである。
以上は素人の憶測に過ぎないので、専門家のご教示を得たいところである。
 中国人社会、イスラーム社会それぞれのなかでも、「敬虔さ」のさまざまな表現形態があるように感じられる。道教の廟や道教と混交した仏教寺院において、線香を握り締め、喧騒のなか、人目も気にせず神像に向かって一心不乱に祈る参詣者の態度は、やはり有る意味で敬虔というべきであろう。一方、広州の光孝寺などの古刹は、騒々しい道教的寺院とは異なり、「紙銭や爆竹の持ち込み禁止」の札も貼られて、日本の京都や鎌倉の古刹とも似た静寂な雰囲気を保っている。モスクのなかでも、ミフラーブの前で礼拝する人々と、聖者の墓の前で放心状態になっているような人々(とくに女性)の間には、異なる敬虔さがある。
 このような「敬虔さ」は、理屈ではなく自然な実践的態度として身につくものであろうが、どのような方法で「比較」できるであろうか、今後考えてみたい点である。


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