イスラーム地域研究5班
研究会報告

bグループ国際商業史研究会第11回例会報告

日時 : 2001年7月7日(土)13:00〜17:30
場所 : 東京大学文学部・法文1号館316番教室
参加者数 : 20名
報告題目 : 
飯田巳貴「15世紀後半のヴェネツィア経済とオスマン市場―東地中海交易圏へのプロローグ―」
西川杉子「よい子のヘンリとその兄弟たち―18世紀ロンドン銀行家の教育環境―」

<概要>

はじめに研究会の近況報告・新入会員の自己紹介と参加者全員による文献情報の交 換をおこなったあとで、飯田巳貴・西川杉子両氏による報告がなされた。報告要旨 は下記のとおりである。各報告につづいて質疑応答がおこなわれ、まず飯田報告に ついては、史料操作に関する技術的な質問として、レジュメ付表にある書簡の日付 はイスタンブルでの作成日か、ヴェネツィアでの受領日か、あるいは筆写日かとい う質問が出され、イスタンブルでの取引や地中海の航海シーズンに関わる問題とし て議論された。また書簡送付ルートについても質問があり、この場合は海上ルー トであるが、バルカン内陸にオスマン朝の駅亭制度があったことが紹介された。さ イギリス史研究者から、レヴァントにおける毛織物と絹の交換はイギリスが始めた と理解していたので、イタリア諸都市がこの分野で先行したのは意外だとの感想が 述べられ、また当時輸出されたのが紡毛製品か梳毛製品かとの質問も出た。
 つぎに西川報告については、ルイ14世との対立関係にあるイギリスでなぜフラン ス語教育が流行したのか、実業家子弟における古典教育と実用教育の選択は、世代 間で変化する傾向にあるか、商家の女性教育はどう考慮されるか、子弟の留学先 はその都市の国際経済的地位と相関性があるか(ジェノヴァの場合)、家族の婚姻 戦略にはどんな特徴がみられるか、goldsmithから出発してmerchant bankerに成長 する事例はどの程度みられるか、その場合の業務内容はどう構成されるか、などの 質問が出された。多くの点は未解明であるが、報告者から若干の観点が示唆された。  本例会は国際商業研究会創立5周年にあたり、また5班bの活動と提携して3年目に 相当する。研究会の運営は安定し、参加者の対話は一層密度を増し、それぞれ一国 史の枠組みを大きくこえる両報告に対して多様な分野から質問が出され、「地域間 交流史の諸相」の一環にふさわしい内容を示した。

<報告要旨>

1.飯田巳貴「15世紀後半のヴェネツィア経済とオスマン市場―東地中海交易圏へのプロローグ―」

 ブローデルの大著『地中海』は、彼の意図に反しそれ以降の地中海地域研究を個 別の地域史に回帰させる結果を招いた。やがて、東地中海地域を近代北西ヨーロッ パに対して経済的に従属する立場に置く図式、所謂世界経済論が研究史上成立する こととなる。本発表の目的は東地中海交易圏という構想のもとに、上記のような従 来の認識に対して再検討を試みるものである。その出発点として15世紀後半のイス タンブル市場に関する若干の一次史料分析を行ない、合わせて研究史上の問題点を 洗い出した。分析に用いた史料は、1480年代にイスタンブルとヴェネツィアの間で 取り交わされた商業書簡(国立ヴェネツィア文書館所蔵ベンボ家商業書簡筆写帳よ り)である。同史料で見る限り、ヴェネツィア商人のイスタンブル市場での目的は 穀物の買付であった。実際の買付はほぼテサロニキで行なわれ、ヴェネツィアから 度々詳細な指示が送られている。これに対しヴェネツィアからは主にヨーロッパ各 地の毛織物と絹織物が持ち込まれ、特にオスマン宮廷での人気の高さが書簡に記さ れている。商品以外に為替等も送付された。星野秀利によれば、同時期のブルサで もフィレンツェ商人が自国の毛織物と生糸を交換している。周知のようにイタリア 半島を含む東地中海地域における繊維製品の動向は、冒頭に述べた従来の図式を裏 書きする重要なファクターのひとつであり、特に「イギリス製の安価な製品に負け た在地の毛織物工業」が同地域の経済的没落の象徴とされてきた。しかし近年では 、繊維工業を含むオスマン朝の製造業や北イタリアの絹工業が17世紀の「危機」を 乗り越えてその後も存続したことが明らかにされつつあり、東地中海交易圏におけ る繊維製品、特に絹製品の流通や消費市場の構造の分析による、新たな経済の枠組 みの可能性が示唆されている。本発表ではイスタンブル市場のみを考察の対象とし たが、今後の課題として分析の範囲を地理的・時間的に拡大していくことが求めら れている。

2.西川杉子「よい子のヘンリとその兄弟たち―18世紀ロンドン銀行家の教育環境―」

ホア銀行は、1672年の創設以来現在まで続いているイギリスで唯一のprivate bankで あり、ロンドン・シティのエスタブリッシュメントの一部と言える存在である。本報 告では、創業者サー・リチャード・ホアの11人の息子のうち、 サー・リチャードの あとを継いだ五男のヘンリが、1699年に設立されたヴォランタリ・ソサエティ、キリ スト教知識普及協会(SPCK)の活動に熱心に参加していたことに着目し、ホア家の金 融ネットワークとSPCKに代表されるプロテスタント・ネットワークの関係について検 討した。特にサー・リチャードとヘンリは、ヨーロッパ大陸各地に留学したホア家の 若者たちに関するさまざまな書簡を残しているので、その書簡の分析から、ホア家の ネットワークやコネクション、さらにそれらを結ぶ価値観や教育観を明らかにしよう と試みた。その結果、ホア家にとっての教育とは、単なる商人になるための見習いで はなく、プロテスタント教育という側面とも不可分であったこと、さらに、ホア一族 の諸活動においては、宗教活動と経済活動とが一体となり、原動力となったことが明 らかになった。この時代の 宗教とビジネスの関係はしばしば言及されることだが、 しかし、ホア一族の場合は、単なる成功した商人の慈善活動といったものでなく、人 々の啓蒙こそがローマ・カトリックの邪教に対する有効な手段である、というモラル ・リフォメーションとの結びつきにおいて理解すべきであろう。

(文責:深澤 克己)


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