イスラーム地域研究5班
調査報告

b グループ「地域間交流史の諸相」鹿児島調査報告書

調査期間  : 2000 年 3 月 19 日(日)〜22 日(水)
調査地域  : 鹿児島県
調査参加者 : 
荒野泰典(立教大学文学部教授)、大石高志(日本学術振興会特別研究員)、栗山保之(日本学術振興会特別研究員)、黒木英充(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所助教授)、羽田正(東京大学東洋文化研究所教授)、原口泉(鹿児島大学教授)、松井真子(日本学術振興会特別研究員)、村井章介(東京大学大学院人文社会系研究科教授)

調査目的  : 
地域間交流(人、モノ、カネ、情報)が行われる「場」の研究の一環として、異なった地域の「港町」を研究する。今回は、具体的に鹿児島県の諸々の港町を実地調査することによって、港町の物質的、社会的、文化的要素を研究することを目的とした。


調査報告


3 月 19 日(日)
 溝辺鹿児島空港から出発し、大隈正八幡宮(鹿児島神宮)を参拝した後、隼人町町立歴史民俗資料館を見学。同館には、「補陀洛」を目指して紀伊国・那智から出帆し琉球国を経て坊津に辿り着いた日秀上人の書状などが所蔵されている。
 隼人港を望む富隈城跡を来訪。この城は島津義久によって築城された。現在は石垣の一部を残すのみだが、隼人港に出入りする船舶の動向を容易に掌握することができる要衝地にあったことが分かる。鹿児島湾奥部に位置する隼人港は都城や霧島方面からの木材や農産物の積み出しに使われ、中国や朝鮮との往来もあったため、定期市が立ったことから浜之市(ハマンチ)ともよばれた。また隼人港には日本各地の港町に見られる「熊野神社」がある。港町に、熊野神社や住吉神社といった名称の社が多く見られるのは、航海の安全を守るものとして信仰を集めたからだといわれている。
 隼人港の次に、国分市・帖佐町の古帖佐焼宇都窯跡(コチョウサヤキウトガマアト)を調査した。この窯は朝鮮より連れてこられた陶工が用いた窯の跡である。なお「宇都」とは良港を意味するという。


3 月 20 日(月)
 この日は、薩摩半島を中心に調査。薩摩半島南部に源を持つ万之瀬川(マノセガワ)河口付近に位置する金峰町・持躰松(モッタイマツ)遺跡を調査。同遺跡からは 11 世紀後半から 15 世紀前期に至る多くの中国製陶磁器や日本製陶器などが出土しており、この遺跡付近の河口が中近世を通じて国際交易港として栄えていたことが分かる。また、この万之瀬川の下流域沿いにある唐仁原を訪れたが、この地は平安末期の唐人居留地であったという。
 万之瀬川河口の新川港はすでに開発されていたものの、一部に石積みの河岸が残っていた。万之瀬川河口から加世田市内に戻り、かつて船を係留した「船つなぎ石」(加世田市・相星)とその周囲を調査した。現在、車道脇に立つ「船つなぎ石」の脇下に大きく広がる田畠は 50m ほど低くなっており、そこがかつての入り江で、たくさんの船が係留されていた地であるという。「船つなぎ石」の後、加世田市・笠沙町の野間半島の野間岬突端を実見した。
 その後南下して鑑真上人上陸地である坊津町・秋目に入って鑑真記念館を見学。坊津町・坊の歴史民俗資料館で同館所蔵の島津義久が発給した「琉球渡海朱印状」を読む。坊津の豪商・海商に宛てられたこの朱印状は、のちに徳川幕府が発行した朱印状の見本になったといわれている。また同じ坊津町・坊には、鎌倉から島津家に従って下ってきたと伝えられる佐藤家の墓がある。同家は、享保の頃の豪商であった。坊津町・久志にある唐人墓は博多浦に多数の唐人が来訪していたことを物語っていた。坊津町・坊の博多浦では港の形態・地形を調査した。続けて、頴娃町の番所鼻や、旧石垣港の周辺の土蔵等を見学した。


3 月 21 日(火)
 この日は、山川町から調査をはじめた。山川町の山川港はかつてはモリソン号事件で、そして現在はかつおの水揚げ港として有名である。今は大きく開発され、往時の形態をそこに読みとることは難しいが、それでも港の周辺域には多くの史跡が点在している。島津光久が設けた山川薬園の跡を見学後、山川郷地頭仮屋跡石塀を調査した。地頭仮屋は、山川港を警備するために設けられた地頭が置かれたところであった。
 その後、山川港を望む南東側山麓に位置する旧正龍寺跡にある墓石群の調査を実施した。ここにある琉球人墓は1786 年 2 月 15 日に亡くなった琉球の那覇東村の大城仁屋という人のもので、当時薩摩藩の代表的な港であった山川港の対琉球関係資料として貴重であるという。なお、墓碑の一部にある「大琉球那覇東村良子摘子大城仁屋」の中で、「大琉球」と読むか、あるいは「本琉球」とするか判然とせ、「大」か「本」かという一字違いが当時の薩摩藩と琉球との関係に大きく係わるため、調査参加者の間で長時間に亘って議論が交わされた。またこの墓地群に隣接して河野覚兵衛家墓石群があり、藩主島津家の御用商人であった同家は奄美大島・琉球・台湾などからの品々を鹿児島や大阪に運び、藩の公貿易の傍ら密貿易によって財をなしたと言われている。
 山川町にもまた熊野神社があるが、第二次世界大戦の空襲で甚大な被害を被り、わずかに墓石や灯籠が残存している程度である。しかし献燈には、山川港を拠点として活躍した豪商・海商・海運業者などの名が見え、海に係わる人々の信仰がしのばれる。
 山川町を離れ北上し、枚聞(ヒラキキ)神社の琉球王献額を見学した後、日置郡東市来町(ヒオキグンヒガシイチキ)神之川(カミノガワ)河口に向かった。ここは、豊臣秀吉の朝鮮出兵後、撤退してきた島津義弘らが朝鮮から連れ帰った朝鮮人陶工を上陸させた地として知られ、彼らが作り出す李朝陶磁が現在の薩摩焼の発展につながったという。なお、神之川河口以外に、鹿児島県内では串木野島平や加世田小湊にも朝鮮人陶工が上陸したと伝えられている。
 さて次に串木野市・羽島に入った。ここは薩摩藩留学生渡欧の地で、19 人の若者(うち一名はこの地で出発前に死亡)がこの地から旅だったという。朝征のため数千人が出帆した京泊は川内川(センダイガワ)河口にあり、河口を望む小高い丘には聖ドミニコ会の京泊天主堂跡がある。また現在は車道脇の田畠になっている久見崎軍港跡はかつて島津藩の軍港であった。
 さらに北上して阿久根市に入り、倉津港を調査した。かつて倭寇の港であったといわれているこの港は、切り立った崖に囲まれているため、外洋からは見つけにくい港の形状をしている。

 以上が鹿児島の調査概要である。今次調査で注目したのは港町の景観であった。周知のように、鹿児島は霧島、桜島、硫黄島と火山帯が続く火山国であるため、活発な火山活動によって形成された複雑な地形を有しており、その海岸部は吹上浜などのような砂丘海岸と坊津町のようなリアス式海岸からなっている。穏やかな河口に形成された港は河川によって内陸の後背地と連係しており、例えば万之瀬川流域の持躰松遺跡は新川港を遡ったところに形成された地であった。また、入りくんだリアス式海岸は、切り立った崖と岸辺まで覆い被さるようにして茂る樹木によって黒潮と季節風をさえぎり、そこには例えば阿久根市・倉津港のような天然の良港が古くから数多く形成された。このように港町の景観に注目することによって、港町の形成要因には地形が最も重要な要素であることを改めて認識した。
 また、今回調査した港町には、熊野神社をはじめとする数多くの信仰の場が存在していた。海商・漁民・旅人など海事に係わるが人々が居住・集散した港町にとって、航海の安全や船旅の成功などを保障してくれる神を祀る「場」もまた港町の重要な構成要素であった。このように、港町の景観といういわば外からの観察・調査によっても実に様々な情報を得ることができた。今回の調査によって得られた知見を今後の研究にいかしてゆきたい。
 なお、最後になったが、今回の調査は、長年鹿児島の歴史を御研究なさっている原口泉鹿児島大学教授の御協力により実現したものである。御多忙にもかかわらず御案内してくださった原口先生に、この場を借りて厚く御礼申し上げます。

(文責:栗山 保之)

 
深く入り込んだ坊津港の入り江
 
山川港を望む
 
新川港の石組み
 
坊津港・坊浦


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