イスラーム地域研究5班
研究会報告

c グループ「比較史の可能性」研究会
99年度のまとめと展望

 2000 年雛祭りの日に、幹事 3 名が集まり、99 年度の反省会を行った。多岐にわたった報告や観戦記で指摘された問題をひとつにまとめることは到底不可能ではあるが、2 年目にむけて、幹事としての考えをまとめてみた。

1.比較の座標軸

「比較史の可能性」と名づけた研究グループの発足にあたって、「原理的レヴェルにたち返った地域の事象の比較」という目標を掲げ、所有、契約、市場というテーマをとりあげた。「原理的」などというと、地域に固有な原理や比較の座標軸があらかじめ想定されているように聞こえるかもしれない。幹事の意図は、その逆であり、事象の比較を通じて、共通の座標軸を発見していこうものであり、また、座標軸の発見自体に目的があるのではなく、個別の事象をよりよく説明するための操作概念(仮説)で十分だと思っている。スポーツにたとえていえば、実際のゲームの展開から、その背後にあるルールを発見し、ゲームや競技をよりよく理解し、より楽しもうということになる。
 なぜ、ゲームの展開から、ルールを発見するなどという迂遠な方法をとるのか。これは、人間社会のルールは、スポーツのルールと異なり、一義的に決めがたいからだけではない。スポーツを例にとれば、実際にほとんどのプレイヤーは、ルールを学ぶことから始めるのではなく、プレーに参加しながらルール(広義には戦術を含む)を体得していく。また、ルールそのものも、用具の改良やプレイヤーの体力・技術の変化によって、あるいは観客の立場も考慮して、間尺にあわないものは変更されていく。つまり、ルールは、プレイヤーにとって、自明のものでも、不変のものでもなく、学び、発見され、改革されるものである。人間社会のルールも、研究者のみならず、当事者にとっても、発見されるものと考えたい。
 ルールを知らないでゲームを観察すると、不可解な場面にでくわすことになる。かつて野球を知らない友人がテレビ中継をみて、首を傾げた。敬遠のフォアボールのことであった。同じようなことは、サッカーやラグビーのオフサイドにもあてはまる。ゴール間近に味方がいるのになぜパスをしないのかは、オフサイドというルールを知らなければ理解できない。そして、オフサイドという反則ルールを知ることによって、サッカーやラグビーというスポーツの奥行きを理解することができる。不可解な場面にでくわしたからといって、そのときに、「行動が合理的ではない」といって、外部観察者の基準で裁断するのではなく、背後にあるルールを探る必要があることはいうまでもないだろう。
 同じ野球といっても、初球から打ちにいく打撃重視の米国のベースボールとは異なり、日本の野球では、なにより「守り」が重んじられる。草創期の米国のベースボールは、投手は打ちやすい球をなげ、打撃の競いあいを楽しむものであったという。これに対し、明治期に学生野球として導入された日本では、心身の鍛錬が目標に掲げられ、同時に勝つための手段として、守備が重んじられたという。だからといって、米国のベースボールだけが本物で、日本の野球は遅れていると考えることもないだろう。ベースボールと野球は、共通のルールのうえにも、双方の異なった歴史や社会環境のもとで異なった競技として発達を遂げたのであり、個々のプレーや戦術を理解するためには、背景にある歴史的文化的コンテクストを含めてみる必要がある。
 私たちがめざしたいことは、個々のプレイヤーの動きから、ゲーム(社会)のルールを見つけだしていくことである。それは、方法的個人主義といってもよい。ルールには、ローカルなものと、一般性をもつものがあるだろう。また、同じルールで行われるゲームでも、プレイヤーや球場の違いによって様々な個性が生まれてくるだろう。そのような了解のうえで、異なったチームが対戦するときの、フェアなルールや球場はなにかが、問われなければならない。

2.社会モデル

 方法的個人主義による社会モデルとして、経済学における新古典派のモデルがよく知られている。それは、自身の利潤(満足)の最大化のために合理的に行動する個人(ホモ・エコノミクス)を想定し、自由な市場取引を行うことで、社会均衡と経済発展(効用の最大化)が達成されるとする。ここでは、統一した自由市場の形成こそが鍵となり、国家には、完全な情報を提供し、自由な取引を保障する中立的な役割が期待される。このようなモデルは、今日のグローバルな市場経済論として、力をえてきているようにみえる。
 しかし、このモデルについては、つぎの 3 点の批判に注意したい。

    2-1  人間個人は、実利とともに、意味や感覚の世界に生きており、両者はわかちがたく結びついている。「合理的な個人」という公準に、実利以外の価値を含めて設定することはできないだろうか(ゲームの理論にはその可能性が含まれている)。
    2-2  個人を集団や人間関係から、分離・孤立した存在として想定しうるのか。関係のなかに個人を定義する方法はないか。
    2-3  市場の均衡の前提となる「完全情報」は非現実的ではないか。むしろ、市場は、不均衡な、情報の差異のある社会ではないか。

 私たちがいう方法的個人主義とは、個々人から出発しながら、社会や秩序が形づくれられていくプロセスやルールを明らかにするためのものである。そこでは、個人や社会は、新古典派モデルのようなのっぺらぼうのそれではなく、地域性や時代性を帯びたものが浮かび上がることを期待している。

3.所有・契約・市場をめぐる地域像

 研究会では、前近代の中国社会と中東・イスラーム社会とは、個人の私的所有権を契約によって自由に取引するという点で「市場社会」とか「契約社会」とよびうる共通性をもっているということが指摘された。集団による所有が支配的であったヨーロッパや日本の前近代社会に比し、早くから、個人の私有権やその取引が経済行為として展開されていたと考えられる。しかし、中国社会は、実勢としては「自由で契約的な相貌」を呈する時期があっても、それは全体の福祉の観点からの微妙なバランス感覚によって支えられていた(岸本報告、p.20)。また、イスラーム社会において、個々の契約をまもらせるには、現実をとりこむ柔軟性をもつイスラーム法とそれが浸透した社会の圧力が必要であった(岩武報告、p.64)。私的所有権や契約を保障する、社会制度(法、慣習、社会組織、文化)のあり方は、西洋近代国家のそれとは異なる地域性や時代性をもっている。
 岸本はさらに、中国では、権利・契約を支える公的制度が不在で、秩序自体が私人的・任意的(ネットワーク的)に形成されるとし、これに対し、イスラーム社会では、信仰と法が秩序に対する信頼を生み出していたのではないか、と述べる(pp.83-85)。加藤博は、前近代のイスラーム社会には、市場の存在を保障する制度(貨幣、法、信用)や秩序や精神(メタ原理)が形成されていたと述べる。あえて私見をここに挟めば、権利や契約を支える制度としてイスラーム法が存在したが、その実効性は原理的にも実態的にも人的関係に依存しており(p.39)、その意味では、秩序は中国社会と同じく、私人的・ネットワーク的になると考えることもできる。  東南アジアについての報告では、むしろ、私的所有権や契約概念を外来のもの(ヨーロッパ近代起源、ないしは、イスラーム起源)として捉える見方が示された(杉島報告、西尾報告)。東南アジア世界の特性として、オリジナルな原理をもつ中国やインドの「自形」の世界に対し、「他形」(原理の採り入れ方、組合せ、機能のさせ方)にオリジナリティがあるという見方がある(高谷好一、桃木至朗)。この議論を援用するならば、私的所有権や個人間契約の有無や起源によって色分けするのではなく、これらの機能のさせかたや度合に、比較の可能性があるのではないか。

4.時間・時代

 近代のヨーロッパに生まれた政治システム(主権国家、国民国家)や経済システム(資本主義)が、世界史に決定的ともいえる影響を与えたことは異論がないだろう。問題となるのは、近代システムによって、なにが変わり、なにが変わらなかったのか、すなわち、連続と非連続である。 ヨーロッパの政治・経済システムが影響を与えたのが近代であるとしても、それは、近代国家や資本主義が世界史のゴールであることを意味しない。経済システムについていえば、ポランニーの3類型(互酬、再分配、交換)やブローデルの3層構造(物質文明、交換経済、資本主義)は、商業取引には歴史上多様な形態があり、資本主義が歴史的に成立したシステムであることを明かにしている。地域社会と資本主義や近代システムとを対抗的に捉えるのではなく、両者の接触や対応に、地域の歴史的個性を見出していきたい。

5.2 年目の課題と計画

 2 年度目( 2000 年度)の研究会では、「所有・契約・市場」の課題をひきつぎ、つぎのような形で議論の展開を図りたい。

    5-1  3 つの課題の接点となるテーマとして、「所有・契約・市場」を保障する秩序のあり方を比較検討する。そこでは、単に、「所有(権)がいかに保障されたか」を問うだけでなく、「所有(権)の保障を通して、秩序や権力がいかに形成されたか」を考えたい。
    5-2  3 地域(中国、東南アジア、中東)以外の地域(日本、南アジア、中央アジア、アフリカ、欧米)を、適宜とりあげることで、論点を広げる。
    5-3  6 月の研究会は、「バザール経済:市場の秩序と市場による秩序の形成」(仮題)、12 月は「公正」をテーマとする。
    5-4  外国人研究者を招聘して、9 月に国際ワークショップを開催し、新たな論点の展開をさぐる。

(文責:三浦 徹)


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